失敗だらけの自分の生き方と、これからの人生戦略
こんにちは。自分の好きな事(インテリア、デザイン、一眼レフカメラ)を仕事にしている崇島亮です。
僕は会社を辞めて現在はフリーランスとして好きな事だけに絞って仕事をしています。
最近、いろいろと活動していく毎に知り合いが増えていくのと、自分の過去の事はあまり話さないので僕のプロフィール記事を書いてみました。
今回は幼少期から今に至るまでの人生を振り返ってみました。そうしたら個人で生きていくために必要な事が分かってきたのです。
もくじ
簡単な経歴
名前:崇島亮(たかしまりょう)
生年月日:1982年5月3日生まれ
兄弟構成:姉(6歳差)、兄(4歳差)、自分(末っ子)
出身地:東京都世田谷区、神奈川県三浦市
最終学歴:日本デザイナー学院
卒業後:デザイン制作会社→IT企業(ブラック)→分裂して3名の会社→デザイン制作会社→一部上場企業インハウスデザイナー→今
趣味・好きな事:インテリア、デザイン、一眼レフカメラ、ブランド戦略
幼少時代からやってる事は変わらない
僕の性格は子供頃からずっと変わっていないような気がします。というか、子供の頃に培った属性のようなものがあると感じていて、それは大人になった今でも何も変わらない仕事にも通ずるものがあります。
僕には3歳年上の兄がいて、遊ぶ時は一緒について行っていました。子供の頃の3歳差は身体能力的にも思考能力的にも圧倒的な差があって遊びについて行くのに精一杯でした。
兄が何かやろうとすれば、常にサポートの役回り。ファミコンやプラモするにも補佐役で失敗すると怒られるので、兄が何を求めているのかを常に洞察して、言われる前に先回りして攻略本のページを開いたり、プラモの接着剤を用意したりしていました。
今している仕事の『需要を見つける作業』に役立っているような気がしています。たぶんこれが原点。
スニーカーブームでせどり物販の中学時代
中学時代に巻き起こっていたハイテクスニーカーブーム。当時、僕は中学1年生で中学3年の先輩とばかり遊んでいました。人気のスニーカーを先輩が履いていて、毎日お願いしてスニーカーを10000円で譲ってもらいました。
中学2年になった頃、そのスニーカーはプレミアが付いて80000円を超えていました(笑)。遅れること数ヶ月、同級生たちはそのスニーカーを欲しがり競売のように値段交渉をしてくるし、先輩も卒業したので25000円で売ることになりました。15000円の利益をゲット!
その頃、僕は同級生たちを差し置いて少し都会に出てスニーカーショップのお姉さんと仲良くなり、新作スニーカーの情報を得ていた。25000円の資本をもとに定価で人気のアイテムをいち早くゲットしプレミア価格(よりちょっと安く)で売りさばいていた。これを繰り返して中学生のくせに金を稼いでいた。と同時に早い情報には価値があると思った。
これが初めての物販経験だった。お金儲けよりも自分の仮説で結果が出ていた事にハマっていた気がする。
音楽にどっぷりな高校時代
高校生になった頃には商売っ気は落ち着き、その当時の洋楽ロックにハマってた。横浜や西新宿のレコードショップに入り浸りレア盤を漁ったりジャケ買い(ジャケットデザイン買い)をバイト代のほとんどを使って収集していました。
この時、CDジャケットはグラフィックデザイナーが作っている事を知り、その職業をしたいと思いました。
エゴイズム丸出しのデザイン専門学校時代
高校卒業後、とりあえず渋谷にあるデザインの専門学校へ入って、課題に対してCDジャケットっぽいものばかりを作って自分がイケてると思う感覚的な事をしていた。
当時の自分の評価(成績)は正直あまり良くなかった。今思えば学校は広告や雑誌など商業的な部分を育成したいに決まっている。ただ卒業制作の自分を主張する『自由課題』では賞をもらう事ができたのだが。
つまらない社会人、保守的なデザイン業界
新卒で入ったデザイン制作会社は、簡単に言うと広告代理店の下請けの更に下請けような会社だった。特に興味のない自動車のカタログの見習いデザイナーとして働く事になったが、デザイン業界では一人前になる為には少なくとも3年の下積み期間が必要とされているらしい。
自由でクリエイティブみたいな事をしようと思っていたので正直つまらなかった。そして、業界の常識を知らないと恥ずかしいという空気が蔓延してるように思った。
実際に約3年ほど働いてみたら基礎的な部分は身についたし業界の空気にも合わせられるようになったと思うが、飽きたので辞める事にした。こんな事やってるの本当に面白いか?という気持ちがつきまとっていた。
この頃にインテリアに興味を持つ
仕事がつまらないので趣味に没頭していっていた時期でもあった。インテリア、と言っても内装をいじるような感じではなく、家具(主にチェア)のプロダクトデザインに興味を持ち、友人とお気に入りの家具屋を巡ったり、ネットオークションでアンティーク家具を買ったりしていました。
将来に危機感を持った20代の転職期
実は会社で働きながら知り合いのCDジャケットのアートワークなどの創作活動をしていた。
当時、人気になっていたmixi(ミクシイ)というFacebookみたいなコミュニティサイトでそのCDジャケットのデザインを公開していたら、会社を辞めたその日にダイレクトメッセージが来た。
「私は音楽レーベルの事業をしている会社の代表ですが、話を聞きたいので会社へ遊びに来ませんか?」ってこんなタイミングでこんな面白い話があるなんて運命めいた感覚になった。
そして後日その会社へ
その当時、ITバブル期でネット系のベンチャー企業が乱立していて、色々な事業に手を出している会社が増えた時代。その会社もベンチャー企業で通信、ECやクリエイティブ関連に力を入れているようだった。
そこの社長に誘われ、アートディレクター(デザイナーの上級職)として会社に入る事になり、入ってみて分かったのだが環境がとても悪かった。
・自分がやりたい事の足元を見られていた
・飲み会に付き合わされる
・帰りづらい空気
・仕事以外は他社員の愚痴合戦
やりたい事だったから給料が安く設定されていて3ヶ月で10万円上げると言っていたがウソだったこと、他にも周りの社員のモチベーションの低さなどが原因であった。
とりあえず社内で同じ事を考えている仲間3名で別会社を作って3人だけでデザインの制作会社をやろうと半年で退社。
たった3名の会社
友達のように気の合う3名が集まって始めた会社は、1人が社長、残り2人は社員という形でスタート。適度に仕事があり、仕事場で音楽を聞いたり、料理を作ったり、夕方に仕事を終わらせてみんなで映画を観たり、わりと時間に余裕のある自堕落な毎日を送っていました。たまたまある時、メジャーな広告賞に26歳の若手が選ばれていたのを見ました。
同い年だった。
同業なので、すごい努力をしているのが手に取るように分かった。このままじゃやばいと思った。この業界(デザイン業界)は実力勝負なので半人前の自分が怠けたら死あるのみ!だと悟ったのだった。結局1年半、そのような怠惰な生活をしていたのだが、もう一度レベルの高い人達が集まるデザイン会社に行って一人前のデザイナーにならなくては!と考えていたら、たまたま新卒入社時の先輩からお誘いがあった。
その会社は広告代理店の仕事が直接できて、たまたま人手が足りていなかった。そこなら一人前になれるかもしれないと思い入社する事に。
広告代理店の仕事
電◯、博◯堂、A◯K、読◯広告という広告代理店の名を聞いて嫌な気持ちになる人は多いだろうが、実際仕事のレベルは高く日々成長していたと思う。
ただし、命を削るような職場でもあった。
朝10時から終電で帰るのがデフォルト。繁忙期には月に休日がなく、徹夜は当たり前。代理店の担当者は夕方まで連絡が取れない、夜になってやり直しの作業、それを繰り返す。
デザイナースキルを体得したが、この働き方が続くわけがない。結局のところ誰かに使われる仕組みに構造の問題があると2年半かけて分かった。
下請け会社ではクライアントに依存しないと生きていけない、だから無理も聞かなくてはいけない。悪循環が終わらない。。
メーカー勤務の友人の求人
そんな時に、2010年の専門学生時代の集まりで久しぶりに同級生に会った。彼は新卒後メーカーへ入社、その後、急成長して事業拡大をしていて、広告や販売促進デザイナーを探していた。
デザイン業界とは少し違った業界だったのでデザイナーの求人に難航していたようでタイミングよく声がかかったのです。
色々と話した結果、その会社のインハウスデザイナーになる事にした。※インハウスデザイナー:下請けではなくメーカーのデザイナー
行き着いた先に組織の弱点
転職をしてクライアントの立場で行うデザインはとても自由で、言わば自分がクライアントになりデザインを通して自分で表現するといった形でした。その会社の社員達のほとんどは同世代(20代)でしたが、僕には他の社員より経験があったようで、しかも全く別の畑から来たこともあり、今までやってきた仕事で良かった部分を取り入れてデザイン部署の仕事効率化を提案しまくって、その時の業績も良かったためか約1年後には部署のNo.2の役職者になっていた。
役職者になってからは他の部署も巻き込むような提案をしていったが、一向に案は通らなかった。よくよく会議を分析してみたら、決まって数人の意見で決まっている事に気付いた。ある時、決まった意見よりも良い案が浮かんだので「案を変えましょう」と伝えると変な空気になった。
それまで気付かなかったが、社内には派閥のようなものがあったようで待遇こそ変わらなかったが、それ以降、役職者会議に呼ばれる事はなくなった。そして、一般社員と話していると、やたらとモチベーションが低いことが分かった。一般社員は毎日を何となく仕事をこなす事がミッションで、普段は上司の前では素振りは見せないが、僕が一般社員に理解があると分かってからは色々話してくれた。一番印象に残っているのが「給料は変わらないから、頑張れば頑張るほど損をする」という若手社員の愚痴だった。
この組織の限界を知り、そして当然のように売り上げは下がっていった。大きい組織には感情マネジメントというムダな負荷を背負っている事がハッキリした。
プライベートでは850万円のリノベーション
プライベートでは趣味の家具を集めていたので、そろそろ家を買って持っている家具を生かそうと思っていた。中古マンションを購入してリノベーションに850万円をかけて家具に合う自宅内装を作りました。
これがとても楽しかったし、せっかく出来上がったインテリアなので、写真を撮ってインスタグラムにUPし始めました。どんどんフォロワーが増えるし雑誌編集者から連絡が来るようになり雑誌撮影、掲載されるようになった。SNSの影響力はすごいなあと感心したと同時に、これは使える!と思ったのでした。
掲載された雑誌やMOOK本は約2年で10誌になりました。
GO OUT livingでは表紙になっていたりもします。
答えは個人で生きる事
僕は自分が今後どうやって生きていくかを毎日考えていました。古い組織はダメ、仲間同士でもダメ、下請けもダメ、会社組織でもダメ。頭をよぎったのはフリーランスだけど問題はフリーランスも下請けだった事。
下請けの問題は上下関係を作る構図で、それなら自分が相手からどうしても必要だと思われれば良いと考えました。会社組織を作らないで出来る限り横の繋がりで仕事を出来れば理想だと思っていた。
それにはデザイン業界にいてクオリティ勝負をしていてはダメで、自分で繋がりを作って、人よりも好きなことや得意なことで優位性を保ち、自分という人間と仕事がしたいと思われる必要があった。
今の僕が考えた結論は趣味を仕事にする事と、全部自分でやらないこと。
仕事の案件ごとに専門性を持った仲間と組んで、自分との補完関係を築くことでチームワークが生まれる。そうするとスピード感が出てアイデアに多様性が生まれる。そして、好きな事だからモチベーションは常に高くお客の感情も理解出来る。
特化した能力を持った同士を集めたプロジェクトチームを作ることは、会社組織のスケールを出しながらも判断が早く身軽な行動が出来ることが分かってきた。
自分の生き方戦略
そんな事を考えている時に出会った1つの本があります。藤原和博の必ず食える1%の人になる方法これを完璧にトレースしている訳ではないのですが、僕は割とこの本を参考にして戦略を組んでいます。
生き方戦略の7つのベース
これが今まで紆余曲折して出た7つのベースです。
・好きなことをする(原動力)
・趣味や特技を仕事にする(優位性)
・納得することをやる(合理性)
・お金を目的にしない(目的意識)
・仕事を断れる状況作る(将来性)
・横の繋がりで仕事を行う(正確性)
・欲を出さず謙虚であること(客観性)
自分が本当にやりたい事で生きていくために必要なことです。会社を辞めて好きな事をする事は一見リスキーな事に見えますが、近い将来に訪れるであろう超実力社会で生きていくための方法なのだと思っています。とりあえず、今は同じ事を考えているフラットな立場の同志を集めて生きていこうと思ってます。
というわけで自己紹介記事を書いてみました。皆さま今後ともよろしくお願いします(^O^)